シュフウグーの 主婦エッセイ

等身大の 心の旅 ~自己観察 家族観察 いのちの観察~

トレンチコートと鯖の骨

「世の中はねぇ 誤解と偏見と言い訳で成り立っているんですよ 僕はね そういう所に…」

このおじいちゃんは何を言っているんだろうと午後の講義の最前列中央でそれを聴きはじめたが その部分の疑問が続きの言葉をつかむ集中力を欠かし 結局教授が何を言いたかったのか分からないまま30年を迎えようとしている

その教授のゼミ生だった大学3年の冬 季節の記憶だけが鮮明なのは 当時15も年の差のあった従姉から貰っていたお下がりの紺のトレンチコートを案外勇気を出して着て出たからだ 既に時代遅れっぽい出で立ちを少し恥じらいながら流行に左右されたくない私は カチッと定規をあてたようなシルエットが気に入っていてどうしても手放せなかった 回りの誰ひとり着ていないし その日も相当視線を浴びながら席に着いた記憶を今もそっと忍ばせている

部屋の中がまだ寒くそれを脱ぐ気にはなれなかったので 少し窮屈な肩の辺りを気にしながら座ったときの崩れ具合を直していると 視線を落とした太ももの辺りを覆った部分に2ミリほどの穴が開いているのに気がついた

タバコの火… 前屈みになりじぃっと近づいて虫喰いだということが分かる頃 誰もそんなところは見もしないのにと思いながら赤面していた 連結した横続きの席が固定されていて前後をやっとすり抜けられるほどの狭い幅に熱が伝わったような気がした 

「あのね 僕の部屋のデスクにマイクが置いてあるから この鍵開けて持ってきてください」

ハッとして顔を上げたら教授と目が合った おじいちゃん教授は私の顔と名前をインプットしていて ゼミ以外の講義では2回ほどそんなやりとりがあったと思う

その大学では2番目ぐらいに大きな講義室だったが 地声だという違和感がないぐらい骨太が響く発声だった しかし大勢の学生の聴く勢いを引き出すことができなかったのだろう マイクはその時になって必要とされたようだ

レールを渡る滑車の気分で私以外座っていないその列をすーっと移動し通路に放すと 扉のノブに動線を当て 身なりに合うような速さで空気を切ってみた

 

本館の教授の部屋まで行く途中 歩く度に少しだけひらっとなる裾の重さがかっこよく思えて 計算されたように左右の膝頭に当たる感触が心地いい 顔を上げて颯爽と歩いた 外気が冷たく感じたのはさっきまでほてっていたふっくらめの頬だけで 小脇に抱えてみたマイクとセットで大学院生みたいと少しわくわくした

別館の講義室に戻ると 銀ブチの眼鏡を外して分厚い講義本に目を落としている教授が顔を上げた 大学院生ぽい格好を続けてみたかった私にマイクの接続をサポートさせ 私も徹したように調子に乗り スイッチが入ったのを確認して元の席に座った

浴びる視線がさっきより平気な気がしながら教壇に身体を向け 心を整えた

「皆さん 魚の骨は残すでしょ 私はねぇサバの背骨まで綺麗に食べますよ 今朝も丸ごと食べてきましたよ! 戦時中は皆飢えていたんですから食べ物を中途半端に残すなんてねぇ 考えられないことですよ バリバリ骨も食べてごらんなさい」

まどろんだ空気がその言葉のところだけ一点に集中し すぐに散らばった そこまで騒がしくはなかったが 教授の講義にパフォーマンス性を求めている稚拙さのようなものが 2列目以降とその両側の連結デスクでうようよしていて 話は聴いていると面白いものだよと振り向きたくなりながら教授を見ていた 今度はスピーカーを通した声が妙に熱弁を振るっていた

焼き魚の想定か…サバの骨もバリバリと音がするのかな…とその傍らに骨せんべいを思い描きながら 魚の骨の話をどうやって講義に繋げるんだろうと興味津々だったが プツッと切れマクロ経済のページを追い始めたので 講義の始まりに聴きかけていた言葉とまとめて横に置いておくことにした

トレンチコートを見て突如導入部分に当てただけなのだろうか 今頃になってそう思い返している 複雑なその作りに当時はややこしいデザインだけど惚れていて 着こなせるかどうかだけに意識が集中していた

軍用コートとして開発されたディティールを歴史も知らないゼミ生が身にまとい すぐ目の前でただ真面目に座っている もしかしたら憤りも微かに湧いたのかも知れない

私の肩に敵の銃が映り デスクに遮られた腰辺りに双眼鏡や水筒がぶら下がっていたのだろうか 颯爽と渡り廊下を歩いてみた何不自由ない呑気な学生だったとようやく気づく

 

今朝お弁当にミンチを捏ねてミニハンバーグを詰めながら思った 最近朝ご飯で塩サバを焼いていない 背骨まで丸ごと食べてみようとも思えない 豊か過ぎる世の中に思えるが 今日も飢えて命絶えていく人がどれほどいるのだろう

気まぐれで寄せる思いも 誤解と偏見と言い訳の端っこなのだろうか

ゴミ出しを終えてもまだ おじいちゃん教授の続きの話が聴きたい

カサカサと私を追い越す枯れ葉にそれぞれの訪れが聞こえた

そろそろ羽織る物を出さなくては…

教授 お元気かな…

 

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衣服の調節が難しくなり 少し心にすきま風が吹きそうになった今朝 ふと学生時代に思いを馳せてみたくなりました。

 

お読みいただきありがとうございます。

 

次回のお越しもお待ちしております。

 

シュフウグー

 

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